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新潮文庫
新潮文庫が、文庫本の中で一番好きだった。高校生になり、色んな本を読み漁っていた時期に。
油紙のような表紙のついた岩波文庫は少しアカデミックすぎる感じがしたし、講談社文庫は紙質もそうだし、当時のデザインがあまり好きではなかった。角川文庫は表紙が薬師丸ひろ子の写真だったりして、少し軽薄な感じがした。その点新潮文庫は、装丁が本の内容に対して媚びすぎないところが好きだった。つまり、文庫の中身の品揃えが気に入っていたわけではなく、モノとしての魅力にほだされていたんだと思う。自分の所有していた数十冊の新潮文庫を、本棚の中に色々なレイアウトで並べなおしてみたり、平置きして表紙を眺めてみたりして、ひとりで悦に入っていたのを思い出す。
ある日、突然に、新潮文庫を全部コンプリートしてみようと思い立った。新潮文庫は表紙を開いたトビラの部分に、出版順に通し番号がついている。その通し番号を1から順に全部コンプリートしようと思ったのだ。当時の新刊書が数千番台で、あぁこれなら10年ぐらいでいけるかな?と思った。確か夏休みの時期で、書店やテレビで『新潮文庫の100冊』フェアとかが行われていたから、なんだよ100冊くらい、そのうちの数十冊は既に読んでるし、目標として小せぇなぁ、と思ったのかどうだったのか。
で、さっそく毎日1冊くらいのペースで読み始めたのはよかったんだけど、数日してふと、基本的な計算違いに気づいた。確かに数千冊の文庫を読むのにかかる日数は計算できるが、文庫はその特性上、日々廃版になるものも多いし、新刊も続々出る。ということは、市場に出回っているすべての新潮文庫を読み終わる頃には、すでに絶対に手に入らない廃版がどんどん出てきて、いたちごっこにしかならないと。
そこで一気に冷めた。コレクション、という果てのない戦いにまじめに参戦することはそれ以来無い。コレクションという行為そのものに興味を失った。
だからといって新潮文庫を読むのをやめたわけではなく、それから以降も同じ作家の本が他社版の文庫と新潮文庫と両方選べるような場合は必ず新潮文庫を選んできたけれど、読書に対しての向き合い方が完全に変わった。コンプリートが不毛な闘いであることを悟ったと同時に、人にとって使える時間は有限で、それをどう使うか、今をどう生きるか?ということに集中した方が、結果的には全部ではないけどたくさんの新潮文庫も読めるし、そもそも新潮文庫と限定して挑戦を始めていたら読めなかったであろう講談社文庫とか岩波文庫とかの本も読むチャンスが生まれるという新しい可能性のほうがおもろい、ということにも同時に気づいたのだと思う。そのときそのとき気になったものは、後先考えずに読む。本だけじゃなくて映画でもテレビでも。コンプリートする楽しみよりも、チョイスする楽しみを優先するようになった。そうすると、集める不可能を嘆くよりも、出会える可能性の無限の広さにワクワクしてきた。面白くて仕方がない。
※新潮文庫の通し番号1番は、新潮社のWEBによれば、川端康成の『雪国』だそうです。結局未だに読んでないけど(笑)